どうしてスウェーデン思想が日本人に幸せを届けるのか ~最新は最先端だが 最適でも最善でもない~

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どうしてスウェーデン思想が

日本人に幸せを届けるのか

~最新は最先端だが 最適でも最善でもない~

■ まえがき

「プレゼンテーション」。

この言葉を見て、聞いて、「パワーポイント」や「スライド」という言葉を強く連想する人は、少なくない。僕も、その一人である。

今や、提案型であれ報告型であれ、奨学金の面接であれ企画会議であれ、大抵はパワーポイントやその他のソフトウェアを用いて、巧みにプレゼンテーションが創られ、行われる。

その不思議な連想を、いったん断ち切ること。

日本人の知らない北欧流の幸せは、ここから始まるのだ。

…はぁ(‘Д’)?

何言ってんだおまえ(‘Д’)

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この記事は、現在スウェーデンのLinkoping Universityで留学している僕が、日常の中での発見と、そこから派生した様々な考察を元に、幸せに生きるヒントを書き留めたものである。

先日の授業中、教授が何気なく使っていた「あるモノ」に、ふと違和感を覚えてから、講義の内容が頭に入ってこなくなった。そこからつれづれに考えを巡らせていると、とても大切なことに気付けたことが、この記事の筆を執ったきっかけだ。その原体験を、ざっくばらんに、無邪気に書き綴っておこうと思った。

ちなみに。

僕は別に、これから書くことに元々詳しい人ではない。だから、専門の方やそれに精通した方からすれば、もしかしたら(というか高確率で)、少し間違った解釈や認識が散見されるはずだ。

そんな時はぜひ、コメント欄やメッセージから僕に(願わくは温かく)教えていただきたい。痛烈に指摘をされる覚悟と、嬉々として追記をする準備は、できている。

■ 僕の感じた「お前まじかw わろたww」

スウェーデンにいると、平凡な日本人の僕にとって「お前まじかw わろたww」と感じる瞬間が、時々ある。それは、システム、道具、手段、デザイン、ちょっとしたアイデアなど、多岐にわたる。これまでは、そういった小さな発見たちを、特段気にかけてきたわけではなかった。たとえ見つけても、思考は「なんかウケるw」くらいで、終わっていたのだった。

しかし、そのうちの多くは、深く考えるに値する斬新なものだった、と今になって思う。実は、スウェーデンで発見する斬新さには、「お前まじかw わろたww」のあとに「まぁ確かに、理に適ってるわww」が続くという特徴がある。つまり、ひたすらにロマンやドリームを追い求める欲望ベースの斬新さというよりは、効率性・節約を追い求める目的ベースの斬新さが目立つ。

例えば。IKEAから出てきた車が、車の天板の上にソファやら机やらをそのまま(本当にそのまま)ロープで縛りつけて帰っているのを見た。初めて見たときは笑い飛ばしていたが、交通量も多くなく山も丘もなく湿度の低いこの地域では、歩道橋もトンネルも急な勾配もなく、木材が湿気で歪むこともなく、トラックを使わず箱で包まず、安全に家まで持ち帰れるらしいのである。突拍子もない見た目だが、余計な手間を省くための、実はある意味かしこい手段ではないだろうか。

そして、教授が使っていた「あるモノ」というのも、そんな斬新たちの一つだ。

僕は、書画カメラの使用を目撃した。

教室で見た、実際の書画カメラ

あ

書画カメラ。

プレゼンターの手元を画面に大きく映し出すための、カメラのことだ。今となっては、天井から吊り下がったプロジェクターと、教壇からヒョイと出たケーブルに置換され、日本ではあまり使われている光景を目にしない。

もちろん、使っている人が全くいないということではない。日本にいたころ、一人の先生が授業で書画カメラを使っていた。手元の紙に印刷されたパワーポイント資料を映し出しているのを見て、「何してんだこの人は。なんでパソコンをつながないんだ。字が薄いし、見づらくて仕方がないなぁ」と、イライラしたことがある。

また別の先生が、手書きの図が書かれた紙を映し出しているときも、「なんでまだ一昔前の技術を使うのだろう。目の前には新しくて便利な最新の技術があるのに」と、なんとなく斜に構えて見てしまっている自分がいた。

だが驚くことに、その”一昔前の”書画カメラは、教育、環境、福祉、さまざまな面で先端的だとしばしば称賛されるスウェーデンの大学教育の現場には(少なくとも僕が今まで授業を受けたすべての教室には)、設置されていた。

書画カメラといえど、僕がスウェーデンで見たそれは、日本の書画カメラとは少し異なる。

もっと”古臭い”ものだった。

日本で見る書画カメラはたいてい、天井のプロジェクターに接続された手元のカメラと台のことである。しかし、こちらの書画カメラは、プロジェクターとカメラが一体化しており、キャスターで可動式になっていた。

こちらの教授の多くは、(もちろん人や規模によるが基本的には)迷いなくそれを使っていた。そして、すごく見やすいかと言われれば、そうでもなかった。たいてい、手書きの文字や図が並んでいて、もう一枚の紙で隠しながらアニメーションを再現したりすることもあった。正直、素直にスライドとプロジェクターを使ってくれたほうが、見やすいなぁと思っていた。

だが、いかんせんこの書画カメラ、使うのが至極簡単で、最低限の機能は満たしているのである。想像に易いだろう:紙に伝えたいイメージを描いて、目の前の小さな機械のスイッチを入れ、すっと置くだけでパワーポイントが必要なくなるのである。可動式であるから、電源が取れさえすれば場所も選ばない。なにより特筆すべき点は、僕はそれによって講義の質が落ちているとは、微塵も思わなかったことだ。

ところで、Frugal Innovationという言葉があることをご存じだろうか。文字の意味する通り、大まかには簡素なイノベーションのことだ。新しい機能や技術を「足す」、あるいは既存のアイデアを「掛け合わせる」ような今までのイノベーションではなく、必要でない部分を排除するなどして必要最低限を追い求める、いわば「引く」発想のイノベーション、といえば想像しやすいかもしれない。僕が、書画カメラの使用に心を奪われたのは、このFrugal Innovationに似たものを目撃したからだったのだと思っている。

■ 講義の本質と“最先端”

どうして最先端ではない技術を使いながらも、講義の質が(最先端のそれと比べて)低いと感じられないのだろうか?古い技術を目の前で当然のごとく使っている先生たちを見ながら、ここに何かスウェーデンの魅力が隠れている気がして、次のような“穴ぼこだらけの”極論屁理屈をこねていた。

まず、「理想的な講義は、先生の持っている知恵と学生の好奇心をすり合わせ、お互いの議論を深めあえる場だ」と仮定した(例外となる「アップダウン型であるべき講義」も知っているが、今回僕が実際に受けていた講義の性格上、このように仮定したい)。先生が知恵を与え、学生がそれに食いつき、双方向的にしゃべりあうという構図だ。これは、頭と口さえあれば成立しうる一方で、僕の知っている講義とは大きく異なる。

そこに、紙と鉛筆があったら、何が変わるだろう。講義で先生は説明や論点をわかりやすくするために使うかもしれないし、生徒は内容を忘れまいとメモを取りながら好奇心をぶつけて質問するかもしれない。講義の質は、仮定した目的を元にすると、向上したと言えよう。しかし、現代では、紙と鉛筆しか使わない講義など無いに等しい。他には何が使われていただろう?

生徒の人数が増えると、先生は一枚の紙では説明しづらくなってくる。そこで、手元の紙を画面に映し出す書画カメラを使うかもしれないし、教科書を導入するかもしれない。学生はノートを効率的にとるために、パソコンや録音機器を使うかもしれない。先生はさらにパワーポイントやKeynoteを使って、生徒がよりわかりやすいように綿密にスライドを作るかもしれないし、それをレジュメにして配布するかもしれない。

果たして、質は向上したのだろうか?すべて、最善手だったのだろうか?目的が少しずつ遷移してしまっているように聞こえるのは、僕だけだろうか?議論を深めあうことが理想的な講義の条件だったはずなのに、あらゆる技術を用いて伝わりやすく・見直しやすくすることが講義の質の向上と思われているように見えるのは、本当に「ただ僕がひねくれた勘違い野郎だから」なのだろうか?実際にこういう流れを経て、現代の講義スタイルにたどり着いたのかは知らないが、何となくしっくり来てしまう自分がいた。

そもそも、議論を深めるためには、常に最新の技術が決まって必要なのだろうか?

…そんなことはないはずだ。その技術がなかった時代にも似たような講義はあっただろうし、僕の先生が書画カメラを使っていて成立していたのだから。「パワポとかめんどいから」という理由があった可能性も捨てきれないが、めんどいからと言って学生との議論を放棄する先生など、この大学には一人もいなかった。きちんと、するべきことを達成する手段として、自分にとって適切な道具を、自分の手で選んでいた。そして、特にスウェーデン人は、その手段が斬新であれど他人のいやな目を気にすることなく、自由気ままに導入する。学生も特に違和感を覚えることは極めて少なかったのだろう(僕のブログでも時々参照しているが、詳しくはGeert HofstedeのDimensionを参照されたい:http://geert-hofstede.com/ )。

ほかにも考えられる理由はある。例えば、授業内容がフレキシブルに変わるから、というのも理由の一つになりうる。

スウェーデン人で構成されるコミュニティでは、パワーディスタンス(この場合、先生-学生という立場間で持っている力の差)が小さい(これも上を同様に参照)。それもあってか、学生は講義中でも質問し放題である。それどころか時々、先生の考察に対する批判さえ飛び交い、日本人の僕は冷や汗をかいた。先生は質問の余地を与えるので、授業がわき道にそれることも多々ある。そういうスタイルの講義では、カッチリと準備したパワーポイントはもはや意味をなさない。だからと言って準備通りに強制的に進めるわけではなく、それよりもその場で書いて即座に説明できるような書画カメラこそが、学生との議論を元に進めるためには最適だと判断されたというならば、僕はうなずける。

日本の講義スタイルを躍起になって批判しているわけではない。もしかしたら、パワーポイントで既に完成された一方向の講義こそが、日本の大学生にフィットする講義の在り方なのかもしれないし、最適なのかもしれない。完全アップダウンのスタイルにデメリットや不満をいくつも見出している人は多いから、時代に合わせた改善の余地はまだ残されているようにも思う。

しかしやはり、講義に限らずプレゼンテーションをするとなったら、パワーポイントをまずいじり始めるのは、多き労に見合わぬ功の少なさを感じるようになった。パワーポイントとは、プレゼンテーションのための道具でしかないうえに、(いまとなっては極論だととらえられてしまうかもしれないが)別に使わなくてもいい場合さえあるのだ。最も伝わりやすい手段を追求することのほうが、よっぽど重要である。実際に作ったものを手に取らせて見せたり、目の前で踊ったり、劇をしてみたり、ただ嬉々とした表情でしゃべったり、もっと伝わりやすい手段など無限にあるはずだ。発想は、自由だ。まずパワーポイントを使ってどのようなストーリーを、だとか、レイアウトはどうしよう、だとか、スタート時点ですでに選択肢が狭まってしまっているような思考は、したくないという結論に至ったのだった。

…と、まえがきの伏線回収をしたところで、最後にもう少しだけ拡大解釈をして、この長い記事を終えることにしよう。

い

余談だが、料理が趣味の僕は日本食の旨さを伝えるべく、「実際に牛丼を食わせる」というプレゼンテーションをした。その結果、その直後にみんなで、醤油やショウガを買いにスーパーへ行くという、大成功をおさめた。

■ 僕は、最新を手にすれば、幸せか?

僕はひねくれ者なので、ここからさらに話を広げて「自分の価値観」という壮大なトピックにも思考を巡らそうと、無謀にも挑戦した。

なぜスウェーデンが僕を幸せにしてくれると感じたか。別に、スウェーデン思想が自分に最もフィットしていて、「ここに住んだら俺は幸せになれる!」という文脈ではない。「最先端 is the best」思想に蝕まれていた僕に、最先端のモノや、そもそも新たな何かを得るということ、あるいは新しいことを知るということは、必ずしも万人にとって幸せをもたらすものではないのだ。ということに気付く、きっかけを授けてくれたからだ。

次々と出てくる最新の技術は、最先端と称されるだろう。しかし、最先端は常に最適ではない。もちろん、最先端の技術を駆使してさらなる最適を追い求めるのがハイテクビジネスの常であるのだろうが。正確に言うと、真に最適な技術こそ、次の時代の最先端と呼ばれるべきなのではなかろうか。…なんてことを、僕の先輩も過去のトビタテ便りで綴っていた。詳しく知りたい方は、是非こちらもご一読いただきたい:http://goo.gl/1BlOZT フィンランドからのトビタテ便り

僕は、最新を手に入れれば、幸せか?

大金をはたいて新しいiPhoneを発売日に買えることが、幸せか?何もかも手に入れられることが、幸せであるということなのか?最も新しいものこそが、常に至高か?

良く考え直してみると、どうやらむやみにモノを手に入れることは、僕にとっては純粋な幸せではなさそうだ。なんてあたりまえな、と思われるかもしれないが、他人がどうであれ、僕が幸せだと思うことが、僕の幸せなのである。そこに、万人に通ずる答えなんてないはずだ。

また、「足るを知る」とは少し異なる。今で満足しようよ、と自分を洗脳したいわけではなく、むしろ満足しないならさらに追求したいと思う。

ただ、別に知りたくないことや、そこまで欲しくもないものは、たとえ無償で与えられたとて、常にプラスになるとは限らない。本当にあなたが幸せだと思うことを追い求めるのが、幸せへの一番の近道なのよ。あなたが本当に必要なものは、時代が流れていこうとも、あなたの中にしかないのよ。と、教室の母なる書画カメラは語らずとも教えてくれたのだった。

記事はこのあたりで、きれいに終わっておく。

…が、国際開発に興味がある僕が、最近考えていることがある。せっかくここまで読んでくださったのだから、どうかあと1分だけ我慢して読み続けてほしい(笑)。

この“北欧流の幸せ”は、国際協力や人道支援にも適用される考え方なのではないか、ということを最近よく考える。国際問題に対して、途上国が必要としないモノを良かれと思って送ったり、知りたいと思っていないことを良かれと思って教えたり、それで解決されているように見えても、いくつかの命が救われても、支援される側は本当に幸せなのだろうか?5年先10年先を見つめたとき、それが持続的な最善手だと、言えるのだろうか?

似た内容が、カンボジアで活動をなさっている事業「ティスタ」のブログの記事や、喜多恒介さんのFacebookポストにもあり、ひどく共感したので、許可を得たうえで掲載させていただく。

ティスタぶろぐ記事:自分で靴を探しに行く力を。

http://teasta.blog.fc2.com/blog-entry-19.html

喜多さんポスト:本当の国際協力って何だろう?

https://www.facebook.com/1989kitakita/posts/1495076840801891

このようなことに関連して、なにか僕に勧めたい本や文献がある方へ。メールでもブログへコメントでも、ツイッターでもなんでもかまいません。前に進むためのヒントを教えていただけると、とてもうれしいです。

では、本当に終わり。

平本嶺王 トビタテ!留学JAPAN三期生

留学相談したい方は、Diverseasからどうぞ