「人種大国イギリス」

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私は今イギリスにいるのだろうか? そう考えることがたまにある。

何故ならば私は今、イギリスにいるにも関わらずイギリス人と会う機会はそんなに多くないからだ。それほどまでにイギリスには、多様な国籍を持った人達が住んでいる。 もし、世界中の人と話がしたいと思っている人がいたら、イギリスにこればその大半は達成できてしまうかもしれない。そんな日常をあなたは想像できるだろうか?

私がロンドンに来てから出会ったのは イギリス人 イタリア人 スペイン人 インド人 インドネシア人 シンガポール人 ポーランド人 ロシア人 ルーマニア人 ブルガリア人 スイス人 ベルギー人 エチオピア人 メキシコ人 中国人 韓国人 日本人…

まだいるけど、長くなるのでこの辺りでストップしておく。

イギリスに来ている割合が多い人種・少ない人種はもちろんあるけれど、地域の偏りはあまりなく、本当にいろんな国の人がイギリスに住んでいる。毎日、本当に多種多様な文化を持った人と接する、それが私のロンドンでの日常だ。

日本にいるころ、私の頭の中で世界は「日本か外国か」に分かれていた。 もちろん知識としていろんな国があることは知っているし、そのいろんな国が互いに違う文化を持っていることも知っていた。それでもこういう考え方になっていたのは、実感としてそれを感じたことが無かったからだと思う。たまに外国人を見かけたりもするが、日本はやっぱり日本人社会だ。

また、日本のニュースでも多くは日本か外国かで語られている感じがする。

そんな中、おそらく私以外の日本人にもそういう考え方をしている人は少なくないのではないだろうか? 私がロンドンでまず感じたことは、顔の造形が多種多様すぎて統一感のないこの場所で、美意識の基準なんてないのではないか?ということ。厳密に言えばあるに決まっている。

でもそれは日本のものとは性質が全然違う。 例えば日本では、「色が白くて、髪がサラサラでちょっと大人しめの、子供っぽさが残るふわふわした服を着ている、可愛いと言える女の子」が一般的な女子の美意識ではないだろうか?

「モテる」の日英の違い

また、「モテる・モテない」こういう意識も民族が統一されている国ならでは考え方ではないかなと思う。 さてこれが、外見も、持っている常識も違う人種同士がごろごろと集まったここロンドンではどうだろう?

まず、「モテる・モテない」というのはみんなが大体同じ常識を共有し、同じ文化を共有している場所でないと成立しないのでは?と感じている。例えば日本人の中では、「誰にでも分け隔てなく気を遣える人」がたくさん友達も出来るみたいな考え方がある。だけど例えばそれをロンドンでやるとどうなるか? 特定のどの国の人というのはあまりはっきりわからないが、外国人には「友達」と「そうでない人」をはっきり分けている人が結構いる。そういう人と関わっていて、例えばその人が自分のことを「友達」と考えてくれていたとしよう。でもそのときにその人が「誰にでも分け隔てなく同じ顔をしている私」を見るとどう思うか? 「ああ、なんだ、この子は誰にでもそういう顔をするのか。私を友達と思っているからでは無かったのか…なんだ…」という考え方になる場合がある。

そして最悪、「偽善者」とか思われることもある。(これは聞いた話ですが)

つまり、自分が良いと思ってやっていることでもみんなが良いと思うわけではないというのがめちゃくちゃ顕著に表れる場所が多国籍の空間なのだ。(もちろん日本でもそれはあると思うけどこれに比べると微々たるもの)

そういう中では、一人が多数に向ける「モテ」とかいう概念は成立しないのではないかとすごく感じた。それに付随して美意識についても一定の顔の造形の基準、髪の色の基準がないこの国で、特定の美意識というのはあまり存在しないのでないかと思う。

私は、ロンドンの人たちは「無駄におしゃれをしないな」と感じている。

日本だとありえないような汚れた靴、服、ボサボサの髪、化粧なしで出勤している人はよく見かける。で、そんな状態で恋人できるのかな…とか思ったりする。けど、こっちの基準は「 モテる」という概念のような感覚ではなく、髪色も髪質も肌色も顔の形も違う中で、個人の中にある個人独特の美しさから恋愛は発展するのではないかと感じた。 みんな外見を見ていないわけではもちろんないが、日本のような外見の一定規定?のようなものは全く感じない。目が大きい人も小さい人も青い人も黒い人もいる中で、一つの美の基準は役に立たないからだと思う。 そしてそれは人との関わり方にも言えることで、「この行いは悪い、この行いは良い」という基準をプライベートな人間関係の中で一律に決めるのは極めて困難である。たぶん無理である。

じゃあみんなどのように人を判断しているのか?

それは個人の感性、フィーリングに合うか合わないかだと思う。「客観的に見て良い人だから」とかではなく「私がこの人を好きと感じるか嫌いと感じるか」という認識で判断しているような気がする。(私はこっちに来てからそうなった。そうならないとやっていけない…) つまり人柄の判断は個人と個人のもであって、そこに第三者の目を感じない。 日本にいたころは私一人に対し、多数の人からある程度一律の基準で人柄を判断されているような感覚があった。服装とか発言とか何かと人目を気にした。(極端な話をすると信号待ちしてるときの姿勢とかまで。)でもこっちではその空気はまずない。となると必然的に人目を気にしなくなる。何故ならば人柄の判断は多数からではなく個人同士で行われるものだから。 「何故アメリカやイギリスのような人種のるつぼと言われる国では、集団よりも個人が尊重されるのか」 私はその答えがなんとなくわかった気がしている。

そして日本とは本当にかけ離れた常識・あたりまえがある国で、私の価値観は毎日、崩壊と再構築を繰り返している。それに、これだけバラバラの国の人たちがおのおのの好きな人と結婚して子供産んでたら子供がハーフだろうがクオーターだろうがそんなの普通だよなと思った。そして見た目で国籍を判断できないことが多い。このまま世界の全部の人種の血を持った子供が生まれた時、その人間ってどんな感じなんだろう、すごい進化系だよな…きっと…とか思ったりしている私の留学生活。

PS

でも私は日本のような人種に統一感がある国が残っていくことも大切だと思っています。グローバル化が進む世界ですが、歴史と伝統や独特の個性というのはやっぱり独自の民族性が作り出すものだと思うからです。イギリスの人種のるつぼという特性もまたその国の個性であり、日本の一民族からくる特性もまた個性なのだと思います。

筆者について

高尾 由香(Takao Yuka)

トビタテ三期 多様性人材コース 自らの哲学、世界観で人ひとりひとりの心を動かすことで、社会全体を動かせるArtist・芸術家になるのが夢。そのために必要な豊かな感受性・価値観を育てるべく、人種のるつぼに飛び込む。日常や世界をArtという魔法でより豊かに。

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