ストラスブールからのトビタテ便り3 -哲学者は役に立つ日の夢を見るか-

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ホホウ! 本日の更新はストラスブールからのトビタテ便り3 -哲学者は役に立つ日の夢を見るか-です。今回のお話は「出来るだけ本質的な価値基準を形成するという哲学の意義」について!

トビタテ便りとは

トビタテ便りの詳細についてはこちらのページをご確認ください。世界中に留学しているトビタテ生から、週に1度1ヶ月の短期集中連載を行ってもらっています。ルールは2つ。「留学先の写真を載せてもらうこと」と「普通の友達には話せないような濃ゆい専門の話を思う存分ぶちまけてもらうこと」です。

6月のトビタテ便りも3人のトビタテ生に描いてもらっています。本日の便りは、政治哲学の中川さんから届いています。「哲学って役に立たないよね」という人にこそ読んでほしい連載です。

これまでの連載記事  

前回の振り返り

さて、前回は以下の話をしました。
1.複数の選択肢から何かを選ぶ時には
2.ある価値基準で「より良い」方が選ばれる
3.価値基準は複数あるので、その中から選択しなくてはならない
4.なので3から選ぶためのメタ価値基準で「より良い価値基準」が選ばれる
5.これには終わりがなく、論理学では「無限後退」と呼ばれる状態になる

およそあらゆる論理はWikipediaの「無限後退」のページから引用するとこのような結末に陥らざるを得ないという悲しい現実が存在しています。

ものごとの説明、正当化の連鎖は、究極的には説明なき原理もしくは独断を終点とするか、または循環論法に入るか、または無限後退に陥らざるを得ない、と考えられる。

多くの人の運命を決める選択ー例えば政策立案ー

とはいえ、私たちは何にせよ選択をし続けて生きていかなくてはいけません。遠くの特売をやっているスーパーにいって賢くお買い物をするか、あるいは近くのスーパーで買って家でのんびりとテレビを見るかを決めなくてはいけないのです。

そしてそんな個人の選択は対等な関係である限り誰が否定できるものでもありません。少なくとも「論理的には否定不可能」なのです。しかし、例えば非常に多くの人たちを巻き込む政府が行う政策の場合はどうでしょうか? 憲法の解釈改憲がピンと来ないなら、消費税が40%になると言われたらどうでしょうか! 俄然身近な話になってきました。

たとえ論理的には「より良い」と言うことが不可能だとしても、だからといって何でも有りになるわけでは決してありません。僕たちは常に、「うーん、色々考えたけどこっちに決めた!」と選んでいます。

時々部屋にもやってくる丸い猫

時々部屋にもやって来て好きにゴロゴロする丸い猫

結局価値観がモノを言う

ここで大事なことは、最早「より良い」選択肢など人によってどうにも変わるということを諦めを持って受け入れなくてはいけないことです。

ものごとの説明、正当化の連鎖は、究極的には説明なき原理もしくは独断を終点とするか、または循環論法に入るか、または無限後退に陥らざるを得ない、と考えられる。

ですから、最終的には「なんとなくこっちのが好き」という感情に目を向ける必要があります。つまり、引用文の中にある説明なき原理もしくは独断というのは「だって好き/嫌いなんだもん」だということです。

(※正確には、おそらく数学におけるゲーデルの不完全性定理のようなことも同時に言っていると思いますが割愛。簡単に説明すると数学のような純粋論理と思われるようなものであっても、数学そのものが数学の無矛盾性を証明することは原理的に不可能だということです)

しっくりくる、の強さ

価値観とは絶対的なものにも思われますがそんなことはありません。昔はわさびが嫌いだったのにいつの間にか好きになるように、田舎出身の若者が都会に憧れ街に出ていつか田舎の良さに気づく(こともある)ように、人の価値観は外部からの影響によってごく簡単に変わります。

大震災に興味がなかったのにある日ふと見た番組でやっていた特番によって自分の生死や災害、自衛隊の存在理由などの価値観が根こそぎ変わる人は多かったのではないでしょうか。原子力発電のリスクを知っていても賛成していた人が、実際の惨状を見て反対するようになった人もいるのではないでしょうか。

そんな時、何が起きているのでしょうか。これは「納得」しているんです。ああ、これはこういうことなんだな。と、論理も何もかもを超えて自分の中で「しっくりくる」感覚を持ったんですね。

この「しっくりくる」感覚というのは、学問でも同じことなんです。例えば法学では、未だに多くの解釈において反対意見と賛成意見が対立していることがあります(例えば結果無価値説と行為無価値説)。論理的にはどちらも当然筋が通っているのです(そうでなければ消えている)。完全に筋が通っている二つの論理が存在しうるんです。どちらを選ぶかは、どちらがより「しっくりくる」かなんですね。

ちっちゃく眠る猫

ちっちゃく眠る小さい猫

しっくりくる、の一歩手前としての哲学

連載中に何度も申し上げている通り、価値基準はそのメタ価値基準を求め、それもまたメタメタ基準を求めると言いました。そして、実はこれこそがよく一般に「哲学」と呼ばれるものの正体の一つだと考えています。

多くの場合、「それは何か、それはなぜか」を何度も繰り返すとどんどん抽象度が増していきます。その抽象度が最も上がるとどんな「それは何か、それはなぜか」が出てくるでしょうか。例えば「自己、意識、生命とは何ぞや」であったり、「自由とは、平等とは、あるいは正義とは何か」「国家はどうあるべきか」といった本質的な問いかけへの回答が求められます。(後者二つは政治哲学の領域ですね)

これ以上答えようとすると、「だって好きだから、だって嫌いだから」になる最後の最後の部分まで思考を深めていくのが、いわゆる「哲学的な思考」というものの、一つの定義になるのではないでしょうか。(一個人の意見です)

これこそが、今日の記事のテーマである「出来るだけ本質的な価値基準を形成するという哲学の意義」です。回答不能になる最後の最後まで問いかけに答え続けることで、人の信念や価値観に簡単に揺らがない深く強い軸=価値基準を形成させることが出来るのです。

よく5つの「なぜ」に答えられるのであれば、その答えには芯が通っているといった考え方があります。(トヨタ生産方式)これはすなわち、より深い価値基準を提示することで相手を「納得・説得」させることが出来るからなんです。

何かを考えたり問題に対処する時、自分のその深い価値基準から逆算して答えを導き出せるようになれば非常に多くの問題に対してしっかりと据えられた視座から取り組むことが出来るはずです。

今後の連載の予定

さて、前々回は「そもそも何かを役に立つか否か評価するための前提とは何か」について、前回は「何かを選択するということは、価値基準を選択するということ」について、そして今回は「出来るだけ本質的な価値基準を形成するという哲学の意義」についてお話しました。

最後の記事ではTPPについて、政治哲学的な観点から考えてみたいと思います。一般に抽象的だと言われがちな哲学がどのように現実の問題に指針を示すことが出来るのかを、力不足ではありますがお伝えしたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

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現在トビタテ生30人と協力して、知の見取り図プロジェクトを進めています。様々な分野で本気で勉強している人が作る本棚を公開・共有するサービスです。簡単な本から難しい本まで読む順番も含めて紹介してくれるので、何か新しいことを学びたいと思った時の、その一歩目のハードルを大きく下げることが出来ます。実現間近なので気になる人は是非見て欲しいです。

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ABOUTこの記事をかいた人

NakaEi

トビタテ一期生。政治哲学と国際政治を学びにフランス政治学院に留学。「知の見取り図」代表、「トビタテハウス」管理人。人権保障をテーマに様々な活動をしている。2016年5月には東洋大学にてゲスト講師として政治哲学×移民に関する講義を行った。知の見取り図(http://mitorizu.jp)、トビタテハウス(http://www.tobitate-house.com)