ウィーンからのトビタテ便り3 〜アリアドネの糸を追って〜

本日の更新はウィーンからのトビタテ便り〜アリアドネの糸を追って〜です。芸術や美術と聞くと昔から変わらない伝統を想起しますが。しかし実際は伝統の中で色や形を変え続けてきたようです。濃厚すぎる記事を要チェック!

トビタテ便りとは

トビタテ便りの詳細についてはこちらのページをご確認ください。世界中に留学しているトビタテ生から、週に1度1ヶ月の短期集中連載を行ってもらっています。ルールは2つ。「留学先の写真を載せてもらうこと」と「普通の友達には話せないような濃ゆい専門の話を思う存分ぶちまけてもらうこと」です。

4月のトビタテ便りは3人のトビタテ生に書いてもらっています。本日の便りは、ウィーンにいる大矢未来さんから。誰が読むのかこんな記事! という程本気で語る「芸術」をお楽しみください。

ロココ風ファンタジー:1897年ミュンヘンの《ドン・ジョヴァンニ》新演出

第一回は、ウィーンという都市自体の演出について、そして前回は世紀転換期の劇場改革について語ってきましたが、今回は幕間劇。南ドイツの大都市ミュンヘンの世紀転換期の演出について語ります。

1.芸術都市ミュンヘン

1180年オットーがバイエルン公に任ぜられて以来、ミュンヘンではヴィッテルスバッハ家による芸術奨励が行われてきた。18世紀にはロココ様式でニュンフェンブルク宮アマーリエンブルクやレジデンツ劇場が、19世紀には擬古典主義が好まれ、国民劇場、グリュプトテーク、アルテ・ピナコテークなどが建てられた。これらの建物によってミュンヘンは「イザール・アテネ」と呼ばれるようになり、同時期に芸術都市を自称するようになった。

歴代の王の中でも芸術パトロンとしてとりわけ有名なのは、ルートヴィヒ二世(在位:1864-1886)である。前回述べた作曲家リヒャルト・ワーグナーの楽劇に心酔し、上演に協力し、彼の楽劇のモチーフで装飾された中世風の城を建て、彼の楽劇専用の劇場創設にも資金援助を行うなど、国庫を傾けるくらいの支援を行った。
世紀転換期になると、ウィーンと同じく歴史主義から脱する傾向が生まれた。ベルリンやウィーンに比べて個人のパトロンが少なかったため、ミュンヘンではこの時代になっても引き続きヴィッテルスバッハ家の支援は重要だった。摂政宮皇太子ルイポルトは特に美術に造詣が深く、画家や詩人と個人的に交流していた。そのため、伝統的な芸術のみならず、分離派などの新しい芸術も国家規模で積極的に購入されたのである。新しい芸術発信地としての「芸術都市」も、相変わらずヴィッテルスバッハ家の庇護下にあった。
芸術と国家の良好な関係は政情の変化により1900年以降崩れ、ミュンヘンは芸術の中心地としての基盤を失っていった。これから紹介する演出の改革は、1890年代、ミュンヘンの芸術界が宮廷という大きな後ろ盾を失う直前の時代に行われたのである。

2. 1897年《ドン・ジョヴァンニ》新演出

1890年代ミュンヘン宮廷劇場では、モーツァルト作曲のオペラ五作のシリーズ上演が行われた。劇場総支配人で演出家のエルンスト・フォン・ポッサルト(1841-1921)が企てたこのシリーズは、モーツァルト作品の「歪曲」を改め、これまであまり上演されてこなかった作品にも目を向けることが狙いとされる。今回紹介するのは、1897年《ドン・ジョヴァンニ Don Giovanni》の新演出である。
ポッサルトは上演に先立ち「オリジナルの台本と総譜に立ち返ることがいかに重要であるか」を説明している。具体的には「客席の規模、オーケストラの力強さ、音楽や言葉全体に関して、1787年10月に巨匠自身の指揮で行われたプラハ初演」を基準にし、「外付けの装置、つまり装飾や衣装に限って、先進的な現代の劇場技術を役立てても良い」と視覚面に限って当時の最新式のものを認めている。では、従来の上演と比べ、どのような変化があったのか。

2-1. 劇場の規模

劇場の規模という点で、モーツァルト生前の上演が意識された選択が行われた。当時の宮廷には二つの劇場があった。大型のナツィオナルテアター(National Theater 現在のバイエルン国立歌劇場 Bayerische Staatsoper)と小型のレジデンツ劇場(Residenztheater キュヴィリエ劇場)である。ポッサルトの企画したシリーズでは《ドン・ジョヴァンニ》のみならず、《魔笛》を除くほか4作は全てレジデンツ劇場で上演された。
小さなレジデンツ劇場は、1750年マクシミリアン三世の命によりキュヴィリエが建築したもので、650席の劇場内部には豪華なロココ様式で装飾される。舞台と観客、観客同士の顔が互いに見えるような規模である。18世紀には宮廷専用劇場として王侯貴族の社交の場であり、イタリア・オペラが上演されていた。モーツァルトのオペラ《だまされた花嫁 Lo sposo deluso》《イドメネオ Idomeneo》が初演されたのも、この劇場である。しかし1890年代には、この劇場は主に演劇に使われ、オペラは2600席ほどの大きなナツィオナルテアターで上演されていた。
1787年《ドン・ジョヴァンニ》が初演されたプラハのノスティッツ劇場(Nostitztheater 現在のエステート劇場 Estates Theatre)もまた、それほど大きくない劇場で同じく社交の場として使われていた。ポッサルトは、レジデンツ劇場を選択することで、モーツァルトの時代を空間的に実現しようと考えたのである。

Residenztheater

現在のレジデンツ劇場

 

2-2. 音楽

劇場の規模に合わせて、音楽も初演に近づける試みがなされた。小さな劇場での上演に合わせオーケストラは全体で26人という小編成になり(それ以前は弦楽器だけで25人)、歌手の細かな歌いまわしや言葉が明快に伝達された。
18世紀に作曲されたオペラでは、曲と曲の間の台詞は、鍵盤楽器の伴奏で歌われるレチタティーヴォ・セッコという形式をとっていた。しかし、19世紀ドイツ語圏ではそれが削除・改変され、オーケストラの伴奏によるレチタティーヴォ・アコンパニャートか、歌われない「台詞」として語られるようになっていた。現在の上演では多くの場合、レチタティーヴォ・セッコが採用されているが、19世紀式の上演に慣れ親しんだ観客には、レチタティーヴォ・セッコが非常に軽やかに聴こえたに違いない。
第二幕の騎士長の亡霊登場の場面での3本のトロンボーンのパートも、本来モーツァルトが書いたにもかかわらず、後世の加筆と考えられて削除された。トロンボーンは18世紀にも宗教音楽に使われ、オペラでは死と関係する場面に度々用いられた。19世紀のオペラでも超自然的な現象が起こる場面にトロンボーンが度々使われていたため、当時目指された「モーツァルトらしさ」にそぐわないと判断されたのだろう。
現在ではモーツァルトが書いたとされる楽譜を特に大きな改変なく演奏する、というのはごく普通に行われていることだが、19世紀には今日からすれば興味深い改変が行われていた。それを本来の姿に戻す、という原点回帰の姿勢が音楽面にも現れている。

2-3. 台本

この姿勢を最も端的に示すのは、ドイツ語のタイトル»Don Juan«が、イタリア語の»Don Giovanni«に改められたことだろう。オリジナル台本を重んじるというと、今日では原語のイタリア語上演が想定される。しかし、原語上演が原則の現代とは違って、19世紀は各国語への翻訳が主流であり、自国の言葉で翻訳上演することが重要だった。この上演でもイタリア語からドイツ語への翻訳が行われたが、指揮者レーヴィは、モーツァルトが書いた音符をほとんど変更することなく、ドイツ語の音節数を合わせ、言葉の内容を忠実に翻訳することが重視された。「忠実な翻訳」も当たり前に思われるかも知れないが、従来の翻訳は翻訳というより翻案という性格が強く、解釈に合わせて言葉の内容が適宜変更されていた。「忠実な翻訳」は、こうした従来の解釈をも突き崩したのである。

同様に台本の改変も改められた。最大の変化は、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの後の喜劇的な六重唱が復活したことである。19世紀中はこの場面にモーツァルトの《レクイエム》が追加されることもあったという。主人公の死という迫力ある場面で終結していた悲劇は、その後の六重唱によって再び喜劇として上演されるようになった。

2-4. 衣装・舞台装置

視覚的な要素も大きく変わった。新しく廻り舞台が導入され、ただの書割ではなく、立体的な舞台装置が使用され、スムーズな舞台転換と中断のない進行が可能になった。衣装にも喜劇的な要素が押し出された。マックス・スレフォークト(1868-1932)《ドン・ジョヴァンニに扮した白い衣装のダンドラーデ》は、この上演で使用されたドン・ジョヴァンニの衣装とみられる。従来、舞台設定が17世紀前半のスペインとされたため、当時の貴族に一般的な黒い衣装が採用されていた。舞台背景には相変わらず17世紀前半のスペインが採用された。

 

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スレフォークト《ドン・ジョヴァンニに扮した白い衣装のダンドラーデ》

 

 

Don Giovanni_05

カール・ラウテンシュレーガーによる廻り舞台の平面図

演出家ポッサルトは衣装に関してのみ、台本や楽譜に基づき《ドン・ジョヴァンニ》の舞台を作曲時期と同じ1780年代としたのである。このような衣装は、モーツァルト生前の上演に使われていないものだったことから、この舞台が厳密な時代考証を拠り所とするのではなく、19世紀末の観客にとってのロココ風の世界観を目指したものであったといえるだろう。また、舞台背景と劇場の内装との様式の違いを中和する機能も果たしていたのかもしれない。

このように新演出によって実現されたのは、小さな劇場でのロココ風の世界の体験だった。そこでは、前回取り上げたワーグナーのバイロイト祝祭劇場、マーラーのウィーンでのオペラ改革とは反対に、観客同士がお互いを意識するような、親密な空間が実現されたのである。

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