ウィーンからアリアドネの糸を追って

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本日の更新はウィーンからのトビタテ便り1 〜アリアドネの糸を追って〜です。ウィーンから届く、ドン引きする程濃いい專門のお話。本日は東京藝大博士課程の、あの方がウィーンという街を様々な角度から紹介してくれます…!

トビタテ便りとは

トビタテ便りの詳細についてはこちらのページをご確認ください。世界中に留学しているトビタテ生から、週に1度1ヶ月の短期集中連載を行ってもらっています。ルールは2つ。「留学先の写真を載せてもらうこと」と「普通の友達には話せないような濃ゆい専門の話を思う存分ぶちまけてもらうこと」です。

4月のトビタテ便りは3人のトビタテ生に書いてもらっています。本日の便りは、ウィーンにいる大矢未来さんから。誰が読むのかこんな記事! という程本気で語る「芸術」をお楽しみください。(第二回はこちら

プロフィール

オーストリアのウィーン大学メディア・映画・演劇学科に留学中。専門はオペラ史。特に現在は19世紀末から20世紀初頭までのドイツ語圏のオペラ演出・上演を対象としています。

ハプスブルク帝国の都ウィーン:リングシュトラーセという舞台と劇場

今回はウィーン最大の舞台ともいえる、リングシュトラーセ(Ringstraße)についてのお話。シュテファン・ドームを中心とする旧市街地(一区)をぐるりと囲む通りはリングシュトラーセと呼ばれ、通り沿いには国立歌劇場や王宮をはじめとするランドマークがずらりと並ぶ。1865年の正式開通から150年を迎える今年、ウィーンではリングシュトラーセにまつわる特別展示やイベントが相次いで行われている。

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リングシュトラーセに面した王宮敷地内のヘルデンプラッツ。観光客や地元の人たちで賑わう。

 

1.要塞都市の終わり、近代都市のはじまり

ヨーロッパの中世由来の都市は、市壁で街を囲った要塞都市だった。オスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)や第二次ウィーン包囲(1683年)など、外からの脅威のたびに市壁はより頑強に増設されていった。しかし、18世紀になるとトルコの脅威は昔の話になり、その文化はエキゾチックなものとしてもてはやされるようになった。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)のいわゆるトルコ行進曲やオペラ《後宮からの誘拐 Die Entführung aus Serail》はそのような流行に則った作品である。また、彼の死の年に書かれたオペラ《魔笛 Die Zauberflöte》は、市壁の外にあるアン・デア・ウィーン劇場で初演された。
19世紀、ナポレオン軍によるウィーン占領を過ぎた頃から、都市人口の増加に伴い中心部の拡張が徐々に主張され始めた。しかしなかなか実行には至らず、1830年代にはウィーン中心部の地価はパリやロンドンをも凌ぐほどの高さになってしまった。1848年の三月革命によってフェルディナント一世が退位しウィーン体制が崩壊し始め、新たにフランツ・ヨーゼフ一世(1830-1916)が即位した。暴動の不安から営舎が建てられるなど情勢は不安定だったが、この若き皇帝は近代都市計画に本格的に着手した。ロンドン、パリ、マドリードといったヨーロッパの主要都市に少し遅れて、ウィーンは近代都市として生まれ変わることとなった。
市壁の撤去が始まり、その周辺の土地が売り払われ、都市計画のための資金が確保された。土地を購入した貴族や上流市民は、通り沿いに豪華絢爛な邸宅をこぞって建設し、そのリングシュトラーセ沿いの入口を書割の如く豪華に構えた。

2.書割としての歴史主義建築

ウィーンの近代都市計画には、大きく分けると歴史主義建築モダン建築という二つの様式が用いられたが、資金調達が順調に進むと、まず歴史主義建築が登場した。1858年には美術史美術館、自然史博物館、ブルク劇場、国立歌劇場など、主だった建築物の設計者がコンペで決定された。採用されたのは、ネオ・ルネサンス様式やネオ・バロック様式といった歴史主義の様式である。この建築様式は19世紀のヨーロッパで流行したもので、ベルリン、ミュンヘン、パリ等のヨーロッパの主要都市にみられるが、新しい様式を追求するのではなく、ルネサンスやバロックの建築様式を取りながら、建築資材には鉄などの近代的なものが使用された。歴史のある様式を使用し支配者の権威を象徴するという狙いを持っている点は、ウィーンも例外ではなかった。
1890年代になると歴史主義の様式は廃れ、都市計画顧問に就任したオットー・ワーグナーは、合理的で装飾の少ないモダン建築を都市計画に取り入れた。この頃のモダン建築は今日の目から見れば十分装飾的だが、それ以前の歴史主義とは全く異なる合理的な様式であることは明らかである。こうしてリングシュトラーセ沿いは、古き歴史主義建築と合理的なモダン建築が相並んで、今日の都市の景観を形成するようになったのである。

3.仮装する市民たち

こうして市壁がすっかり取り払われ、旧市街地が大通りに囲まれその道沿いに豪華絢爛な建物が立ち並ぶと、リングシュトラーセそのものが皇帝と市民たちの大きな舞台になった。
18世紀末から上流市民たちの間では「活人画 Lebendes Bild」という文化があった。社交界に属する人々がある戯曲の一場面や歴史画を、衣装を身につけるなどして集団で再現し写真に収める。ふつう個人ではなくサロンなどの集団で行われ、17世紀オランダで栄えた集団肖像画のような役割をも果たしたという。19世紀後半に写真の質が良くなるにつれますます愛好され、ウィーンの近代化が進む1890年代にも健在だった。1893年3月、ウィーンで最も重要だったサロンの一つトデスコ宮殿で行われた活人画については、ウィーン・サロン新聞(Wiener Salonblatt)において参加者全員の正確なリストが公開されている。そこには若き詩人フーゴー・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)の名を連ねているが、彼はこの日のためにプロローグとエピローグまでも書いたという。この催しでは、1870年代に活躍したハンス・マカルトやモーリッツ・フォン・シュヴィンドらの11作品が再現された。衣装を身につけて歴史や神話上の人物になりきるという演劇的な文化は、サロンという社交の空間で楽しまれるだけでなかった。国をあげての大規模な行事にも同様の傾向が見られるのである。

1879年4月27日、皇帝フランツ・ヨーゼフと皇妃エリザベートの銀婚式を祝して、大規模な祝祭行列が行われた。16世紀ルネサンス風の衣装に身を包んだ一万三千もの職業組合の人々が華やかな祝典馬車に乗り、リングシュトラーセを行進したのである。
前年ハンガリーを襲った洪水のため、同年開催予定だった各地での銀婚式祝典は皇帝の命により全て中止され、復興資金に充てられたが、ウィーン市主催の祝祭行列だけは「芸術と産業のさらなる発展のため」として許可された。1878年12月に市議会の場でユリウス・リッターによって提案され、年明けには皇帝より開催許可が下り、2月には委員会が組織された。このとき、数名の芸術家と共に依頼を受けた人物が、ハンス・マカルト(1840-1884)である。1870年代にウィーンで歴史画家として活躍し、美術史美術館を始めリングシュトラーセ沿いの新たな建物の室内装飾やブルク劇場の舞台美術に関わり、その画風はウィーンの上流階級に好まれ、衣装から室内装飾にいたるまで影響を及ぼした。

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E.シュタッドリンによる多色石版。 このグループは「鉄道」を寓意的に表す。 ÖNB Bildarchiv und Grafiksammlung [Pk 207, 35]

今日でいう芸術監督に任命されたマカルトは、短期間のうちに衣装の図案を描き、2月25日・26日の二日間、35枚中19枚を旧市庁舎に、3月5日から12日にかけて全てのスケッチをウィーン・キュンストラーハウスに展示した。展示されたのは、一枚あたり64×285cmの図案が繋げられた、全体で100mにもなる長いフリーズだった。
当日は百万人あまりのウィーンの人口のうち、三十万人が見物に集まった。ウィーンの有力紙ノイエ・フライエ・プレッセは 1879年4月28日祝祭行列について次のように報道した。

この民衆は、充分に美しく与えられた自然に対するまなざしと、豊かに洗練された芸術に対する感覚に満ち満ちており、愛と誠を表すのに、表敬に一般的なやり方では満足しようともせず、また出来もしなかった。芸術的に、また美の理念によって支配されて、ウィーンの民衆という自己表現を具現化しようとした。

先に述べたように、この行列の衣装に16世紀ルネサンスが選択されたことからも、重点が市民に向けられていたことがわかる。皇帝による新絶対主義(Neo Absolutismus)は、1858/61年のイタリア統一戦争、1866年の普墺戦争の敗戦によって限界を迎えていた。しかしその一方で、多民族国家であるオーストリア=ハンガリー二重帝国の象徴として、皇帝は重要な存在だった。
歴史行列自体は19世紀のドイツ語圏で盛んに行われたものだが、これ以前のドイツの行列が歴史考証の正確さを徹底することで市民としての意識を強化したのに対し、この祝祭行列で市民たちが身につけた各々の職業を寓意的に表現した衣装は、必ずしも歴史考証の正確さを追求してはいない。「鉄道」のように19世紀の発明すら寓意的に表現されたものもある。衣装は、アルブレヒト・デューラー(1471-1582)による《皇帝マクシミリアン一世の凱旋行列 Triumphzug Kaiser MaximiliansⅠ》(1522年)やマカルトによる《アントウェルペンへのカール五世の入城 Der Einzug Karls V. in Antwerpen》(1878年)を元にしたと言われる。
つまりこの行列には、皇帝を讃えつつ、その下で繁栄した市民社会を芸術的な方法で表すことによって、皇帝と市民の結びつきを強め、現体制の強化を計る狙いがあったと考えられる。

この行列でもう一つ注目すべきなのは、行列の最後を飾ったのが芸術家組合であり、彼らが16世紀ではなく、特別に17世紀の衣装を身につけていたことである。まず、行列の最後に位置することは、行列の先頭で王室に属する狩猟グループと対置されることでもあった。一方、芸術家組合が17世紀を選択したのは、16世紀に比べ画家の地位が大きく上昇した時代だったからだと考えられる。記録によると、マカルト自身もその一人として、17世紀を代表する名匠であり外交官の役割をも担ったピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)に自分を重ね合わせ、羽根付き帽子をかぶり白馬に乗って現れた。こうして、行列の中で芸術家の地位の高さが強調されたのである。

 

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パレードの衣装を着たマカルト。 ÖNB Bildarchiv und Grafiksammlung [Pf 153541 C (15a) ]

 

この行列については、準備期間から多くの新聞が報道し、その後も様々な形態・価格で1881年頃まで記念冊子の出版され、一部国外にまで伝わり、皇帝の権威を広く知らしめると共に「マカルトの祝祭行列」として後世にも語り継がれることとなった。

このような劇場の外にまで浸透した演劇文化は、作家シュテファン・ツヴァイク(1881-1942)が『昨日の世界 Die Welt von Gestern』で語った言葉を思い起こさせる。

観客は宮廷劇場の役者を手本だと思っていた。どのような身なりをしているか、どのように部屋に入るか、どのように会話するか、どのような言葉を良い趣味の人は用いて良いのか、どのような言葉を避けなければならないか。舞台は単なる娯楽施設ではなく、言葉が話され、立体的な形を持った上品な振る舞い、正しい言葉づかいの入門書だ[…]

 

主な参考文献

  • Arco, Agnes Husslein and Alexander Klee, eds. Hans Makart: Painter of the Senses. München: Prestel, 2011.
  • Gleis, Ralph. eds. Makart: ein Künstler regiert die Stadt. München: Prestel, 2011.
  • Fogarassy, Alfred. eds. Die Wiener Ringstraße. Ostfildern: Hatje Cantz, 2014.
  • ジョージ・L・モッセ 『大衆の国民化 ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化』(George L. Mosse. The Nationalization of the Masses, New York: Howard Fertig, INC., 1975) 佐藤卓巳、佐藤八寿子訳、東京:柏書房、1994年。

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